掲載日:2014年3月4日
第34話(最終話)  一円融合にむけて

   さて、いよいよ最終回となった今回です。3年前の、あの3月11日の大地震は、あまりにも大きなできごとでした。金次郎もまた、おなじように、歴史的とも呼ばれる大規模な自然災害がたび重なる時代を生きました。その環境のなかでこそたどり着いたのが、まさに「一円融合」という発想でした。それはいわば、恩恵をくれる自然だけではなく、災害をおこす自然とも、まっすぐに向き合い、つきあってゆく「覚悟」と言い換えられます。

   彼は言います。「覚悟さえ決まれば、かならず知恵が生まれるはずだ・・」と。

   自然現象には異変が。人生には悲しみや辛さが。経済状況には不景気が。ものづくりには失敗や苦労が。かならず起きるのが「現実」です。ただし、そうしたものとも、「融合」へと向かえるのが人間の知恵と工夫と創造の力だと、彼は信じていました。異変を前提にし、異変につまずかない・・。そうであってこそ、たしかな「安心」へと、「永続」へと向かえるわけです。
   大雪を覚悟している雪国だから、知恵を凝らした備えがある。年中実るわけではないと覚悟している米だから、年間通じて食べられる工夫(備蓄)がある。ならば、異常気象だって、不景気だって、かならずそこを切り抜け、切り拓く道があるはずだ・・と。「雪なんて降らなければいいのに」「毎月米が実ればいいのに」「不景気なんてなくなればいいのに」「自然がいつだって穏やかならいいのに」・・そうやって非現実的な理想論に逃げ込み、覚悟をしそびれると、せっかくの知恵も道も生まれません。
   一円融合。それは甘やかな共感や単なる支え合いではなく、凛とした覚悟と責任と知恵による人間らしいたくましくしなやかで誇らしい生き方です。重要なのは、この発想の根底を支えていたのが、金次郎が抱きつづけていた「人間ってすごい!」という、そんなワクワクした感動だったことです。
   みなさまは、このコラムで描いてきた金次郎の姿に、なにをご覧になったでしょうか。この場をひとつの機会として与えてくださったインテグレックスさんとの出会いに、そしてお読みいただいたみなさまとのご縁に、こころからの感謝を申し上げ、コラムを終了させていただきます。ほんとうに、ありがとうございました。


南相馬市の墓入口

南相馬市の墓


掲載日:2014年1月30日
第33話  金次郎にみる貪欲さ

   凛としたつめたい空気が広がるほどに、夜道で出会う月が美しさを増すような気がするこの頃です。
   このコラムのなかでは、金次郎のお話をしてきました。わたしにとって一貫しているのは、彼が、いつだってどこかカラリとした晴れやかさや、ある種の楽観的な空気とともにイメージされる人物だということです。一見するとネガティブでしかないことさえ、実に見事に楽しむ術をもっていたひと・・そんな感じでしょうか。
   あるとき、借金に苦しんでいたけれど、懸命に働いてどうにかその返済を終えたひとがいました。金次郎は、実に楽しげにこのひとに語りかけます。「これから先は、していない借金を返済していったらどう?」と。
   たとえばこれまで月に1万円ずつ返済していたなら、これからも月に1万円ずつ積み立てたらどうかと言うのです。これまでできたんだから、ムリではないだろうと。そうやれば、あなたは今後すごい財産を築き、のちに大きなことに挑戦できる基盤や、たしかに安心できる未来をつくりだす成功者になるだろう・・と。
   ここで金次郎は、借金を背負った現実を活かそうと提案しています。借金のせいで苦しかった、とすれば、それは単に人生を疲弊させたマイナスの経験です。けれど、その借金のおかげで芽生えた力(月に1万円をなんとしても生み出すという知恵や力)があった、と捉え行動すれば、それは人生を豊かにするための得難いプラスの経験になります。
   日々の暮らしのなかには、すてきなことや嬉しいことばかりが起きるわけではありません。一見すると敵にしかみえない相手、打ちのめされそうな事象、理不尽にもみえる腹立たしいできごと・・。そんなことといっぱい出会うのが「現実」だと、金次郎は考えていました。そんな現実のなかで、酸いも甘いも、苦も楽も、失敗も成功も、不況も好景気も、苦手も得意も・・。すべてを否定してしまうことなく、「一円融合」の姿勢で待ち受け、どんな場面にもしなやかに向き合ってゆくことで、タフに、貪欲に、そしてワクワクドキドキと、人生を味わおうとしたのが金次郎なのではないか・・。少なくともわたしはそんな風に感じていたりします。

南相馬市の墓 入口
(福島県南相馬市)


掲載日:2014年1月7日
第32話  「たからもの」の在処

   あけましておめでとうございます。年末年始の大型連休を堪能された方も多かったかも知れません。となると、仕事始めのこの頃は、ちょっと複雑な想いが生まれたりもするでしょうか。そんな事態ともすこし関連するお話をしてみます。
   金次郎がまだ幼い頃、近所の比較的大きな農家で、経済が傾いて困った家があったそうです。その家では、親戚一同が集まって話し合い、まずは所有している田畑を少しずつ売って対応しようと決まりました。ところが、これをたまたま聞いていた金次郎は大笑いをして言います。

      「大人たちは頭がおかしいのか?!
         なぜ財を生む田畑を手放し、財を食う家屋敷を残すんだ?」

   さて、唐突なようですが、みなさんにとって「たからものって何ですか」と尋ねられたら、何を思い浮かべますか。家屋敷や高価な車?家族との楽しい時間?贅沢なバックや指輪?目に見えるものもそうでないものも、いろいろあると思います。けれどこの「たからもの」という語、そもそも日本古来の辞書にどう記されているかご存知でしょうか。実はこれ、「田から生まれるもの」となっているそうです。農耕民族として、古来より田畑とともに生きた日本人らしい発想だと感じます。
   田が生み出すものが「たからもの」。もちろん、それは第一に作物という財であり、経済でしょう。しかし、田で生まれるものはそれだけではありません。たとえば、ひととひとの絆。ひとと自然(太陽や雨や大地)との絆。労働を通してかく汗。知恵や工夫や技術や誇り。文化や歴史・・。つまり、古来の日本人たちは、高価で手に入りにくい何かをではなく、ごく日常の暮らしにある、毎日の働く場所にある、そんなものを「たからもの」と捉えていたわけです。
   先の逸話からも、金次郎にとってもまた、田畑のうえで働くことは、一貫して尊い「創造」の営みだったことが分かります。だからそれはいつだってワクワクドキドキするものでした。労働は、疲弊する消耗活動ではなく、「たからもの」へとつながる生産活動だったわけです。
   午年のこの一年、それぞれの田畑にはどのような「たからもの」がウマれるでしょうか。どうか、佳き年となりますように。

南相馬市の墓
(福島県南相馬市)


掲載日:2013年12月3日
第31話  ひとを育む「問い」

   さっそくですが前回のつづきです。忠真公と金次郎を師弟ととらえたとき、一体どのようなテーマがみえるのでしょうか・・。
   たとえば忠真公は金次郎に、いつだって「答え」ではなく、「問い」を与えます。「○○しなさい」と教えるのでなく、むしろ自身でもわからないことを「どうしたらいい?」と尋ねるのです。それを受けて金次郎は必死に知恵を絞り、技術を総動員し、考えるわけです。
   ひとを育むとき、「正しい答え」を教え、与え、導くことをイメージしがちです。しかし、相手が考え、新しい答えを創造するきっかけになり得る「ふさわしい問い」を与えることもまた、大切なやり方だということです。
   たとえば、「大リーガーになる」という、答えやゴールになる目標は、ときにひとを疲弊させ、燃え尽きさせ、挫折させ、閉じてゆくことがあります。一方、イチロー選手は幼い頃から「大リーガーになって活躍する」と夢を描いていたと聞きました。これは、答えをいくつも生み出す可能性を秘めた問いやスタートになる、ひとを開いてゆく目標と言えないでしょうか。
   金次郎もまた、村おこしの際には忠真公をまねて表彰制度を採り入れます。しかし、彼が誰かを選出し、「○○さんが模範だ」と答えを教えることはしません。村人一人ひとりに投票権を与え、尋ねるのです。「誰が村のために頑張っていると思う?」と。この問いが村人たちの主体性に火をつけ、各人の模索がはじまり、知恵が、絆が、創造的な営みが生まれるわけです。
   ひとを育む「問い」。しかし、実はこのときもっとも重要なことは次の点です。なぜ、金次郎が必死で答えに向かおうとしたのか。それこそほかでもなく、問い手である忠真公が問うたあと、待っていたからです。目をはなさず、耳をすませ、そして信じ、じっとじっと金次郎からの応えを待っていたから・・。
   その指導者の姿が、金次郎にとっては、信頼を与えられている実感となり、勇気となり、自信や誇りとなったのでしょう。だからこそ彼は、懸命に応答しようとします。結果的に金次郎をひと回りもふた回りも成長させ、育んだのは、問いであり、そんな問い手の姿勢だったと、少なくともわたしはそんなことを感じています。

南相馬市の墓入口
(福島県南相馬市)


掲載日:2013年11月5日
第30話  金次郎を育てた「師」

   陽光をここちよいと感じる気候になりました。あちこちで豊かに香る金木犀も、佳い季節の到来を教えてくれます。さて、今回もまた、金次郎をめぐってのお話をさせていただこうと思います。
   よくいろいろなところで、金次郎にみる「世のため、ひとのため」の行為は、彼の天性の崇高さゆえのものだと言われたりします。しかし、少なくともわたしは、そうではなかったと聞いてきました。
   16歳にして両親を失い、全財産を失った金次郎は、ものすごく懸命にはたらきます。でもそれは、ごく素朴に「自家の再興のため」でした。あくまでも「自分のため」であり「自分の亡き両親のため」だったのです。そして、無一文だった金次郎は、32歳のときには、村で二番目の大地主にまで成り上がります。実り豊かな田畑を大いにたくさん所有する身分となったわけです。ところが、この業績が小田原城下にまで響き、藩主の耳に入ったことから、事態が一転してゆくことになります。
   藩主、大久保忠真公は、表彰というカタチで金次郎のこの業績をねぎらいます。そのとき忠真公は、おっしゃったのです。「そちの功績は、村のためになる尊いものだった」と。
   金次郎はここで、とっても驚きます。自身がただただ「自分のため」とがむしゃらにがんばってきたことが、結果として、村の荒れ地を切り開き、雇用を生み出し、村を豊かにしていた「村のため」のはたらきになっていたことに初めて気づいたからです。「村のため」と言われることが、どれほど誇らしく、嬉しく、感動する体験であるかを初めて知ったからです。金次郎は以来、この忠真公を生涯の師として、敬愛しつづけて生きてゆきます。
   つまり彼は、決して生まれ持った天性で「世のため、ひとのため」に動いていたのではなかったわけです。こうしたよき師との尊い出会いがあり、ある意味の教育があったからこそ、その道へと歩み出せたのです。そのように思うとき、実はこの忠真公と金次郎の間には、「指導」とか「教育」とか「ひとを育てる」というときの大切なポイントが、いくつもはらまれていると感じるのです。
   次回は、その点についてより詳しくお話ししてみたいと思います。

南相馬住宅跡
福島県南相馬市)


掲載日:2013年10月1日
第29話  明るい台所で生まれる「おもてなし」

   2020年の東京へのオリンピック誘致が決定しました。この事態とともに、「おもてなし」の言葉がぐっと光を浴びることとなったこの頃です。この言葉から、ふと思い出したことがありました。
   それは、金次郎がつねづね「台所の明るさ」にこだわっていたというお話です。彼はいつも、太陽の光を、明るさを、家人が暮らす部屋や、客を迎える空間といった表舞台にではなく、裏舞台になりがちな台所に取り込もうとしました。日々、煮炊きを繰り返す台所は、男尊女卑が当然だった当時の女性たち、もしくは身分制度が残る当時の使用人たちが利用する場所でした。ともすれば軽んじられ、光のあたらない暗くじめじめした陰へと押しやられることだって珍しくなかったでしょう。しかし金次郎は、そんな常識を覆し、台所こそ光があたる明るく心地よい空間にすべきだと考えていたのです。
   これは一見、上の者たちへのいさめのように聞こえるかもしれません。ムダな贅沢などせず、質実剛健に、下の者たちにも配慮や思いやりを示せと言う道徳論に聞こえるかもしれないのです。しかしわたしは、そうではなく、もっと合理的な発想のように感じます。
   このとき大切なのは、台所やそこで働く者たちへの配慮が、賃金アップや褒美ではなく、「明るさ」としてカタチになっている点です。金次郎は、あくまでも台所を、より効果的、効率的に「活かそう」としているのです。台所の生産性を向上させるための知恵と工夫が、「台所の明るさ」だったわけです。賃金や褒美は、下手をすれば生産性を低下させます。相手に怠慢な気持ちを芽生えさせたり、不足感から「もっともっと」という奇妙な欲求を生んだり・・。そうやって、ムダな争いや心配事をわざわざ生み出してしまう可能性があるわけです。
   上の者は、明るさというカタチで環境を整え、愛情や気遣いを伝える。下の者は、その想いに押し出されるように、そこでの働きを活性化させ、一人ひとりの主体的な動きへと力を注ぐ。金次郎の狙いはそんなところにあったのではないかと感じるのです。そしてこの工夫の在り方は、どこかかかわっているように感じるのです。ビルや交通網の建設といった表舞台の整理以上に、もっと底力をもった、根っこからのワクワクドキドキとした「おもてなし」のための秘訣と・・。

南相馬住宅跡
福島県南相馬市)


掲載日:2013年8月27日
第28話  自分にとって必要なもの

   さて、前回の金次郎をめぐるエピソードから連想したことを、今回は描いてみたいと思います。それは、わたしが子育て支援機関を運営し、そこで子どもを持つご家族のいわばコンサルタントのような役割を果たしながら、日々感じていることのひとつです。
   たとえば子育てをしていると、実にいろんな情報が入ってきます。子どもが悪さをすれば、学校から電話があります。同級生の子の親からは、将来のためにはこんな教育が必要らしいと言われます。テレビからは、子どもたちが歩みゆく未来の不安事が知らされます。そうやって情報が入れば入るほど、心配や不安も増し、課題が山積みのように感じ、途方に暮れそうになります。
   わたしは、かならずご家族に言っています。「どうか、勝手に入ってくる情報や常識は、すべて無視して、聞き流してください。たとえそれが、どんなに相手の親切から言われているものであっても、耳も心も貸さないでください」と。わたしは、そうした情報がわたしたちを助けるカタチで働いてくれることはほとんどないことを感じているからです。むしろこちらを混乱させ、不安にし、判断を間違わせたり、迷わせたりする方がずっと多いと感じているのです。
   ほんとうに自分を救い、導き、力づけてくれるような、意味があり、価値があり、助けになる情報は、自分が切実に求めた先で生まれる出会いのなかにしかないと、少なくともわたしはそう感じています。
   だから、実のところなにより大切なのは、まずはやってくる外の情報に惑わされず、目の前の子どもを自分の目と感覚でしっかりとみること。そのうえで、もしなにか不安を感じることがあれば、心配になることがあれば、そのときに情報を求めて、自分なりのアンテナを立て、それを探すこと。そうすれば、かならず必要な、そして良質な出会いが生まれるだろうということです。
   「こちらが求めてもいないのにやってくるものは、なにか魂胆があることが多い。本当に正直で誠実なものは、求めてもすぐにはやってこないだろう」と金次郎が判断した姿から、わたしはそんな自身の認識を連想しました。みなさまは、何を感じられたでしょうか。

南相馬住宅跡
福島県南相馬市)


掲載日:2013年7月30日
第27話  金次郎がみせた判断

   暑中お見舞い申し上げます。木々が生い茂り、くっきりまぶしい夏色の風景が広がるこの頃です。今回もまた、金次郎のお話をしてみたいと思います。
   それは、彼が生まれて初めて農村復興という仕事を依頼され、自らの故郷を遠く離れたその村に向かっていた道中でした。村の手前のある地域で、新しくやってきた指導者である金次郎を出迎えたひとがいました。そして、彼をねぎらって言いました。「遠くよりお疲れさまです。どうぞここで少しお休みになり、旅の疲れをお取りになってから、目的地に向かってください。少しばかりの料理も用意しましたので・・」と。
   すると金次郎は、大変丁寧に応えます。「力不足の自分が、指導せよとの大きな命を受けたいま、休んでいるゆとりさえありません。お気遣いはとっても嬉しいが、ここは先を急ぐことに致します。お気持ち、本当にありがとうございました」と。同行していたひとは、やや不思議に思い、あとで金次郎に尋ねます。「なぜ厚意を受けなかったのですか。せっかくわざわざ出迎えて、あんなにも親切に声をかけてくれたのに」と。
   これに金次郎は応えます。「あれは、注意を要する者に違いない。こちらが求めてもいないのにやってくるものは、なにか魂胆があることが多い。本当に正直で誠実なものは、求めてもすぐにはやってこないだろう」と。そして「ただし、そんな相手の善悪を、こちらが裁く必要はないのだ。ただ相手を退けず、しかし策にはまらず、我が道を注意深くゆけばそれでよい」と。
   みなさまは、こんなお話を聞き、どのような感想をお持ちでしょうか。わたしはこのお話を最近になって知りましたが、自分が日頃とっている姿勢と、ある意味でとても重なるように思えて驚きました。それがどのようなものか、については、ぜひ次回ゆっくりとお話ししたいと思います。次回まで、みなさまなりのイメージをめぐらせてみていただけたら嬉しいです。
   いましばらく暑さがつづきそうです。くれぐれもご自愛のほどを・・。


南相馬住宅跡
福島県南相馬市)


掲載日:2013年7月1日
第26話  金次郎にみる財の増やし方

   青々とした田んぼや、その香りが、なんとも美しい季節です。今回は、そんな田んぼから連想したお話をしてみようと思います。
   金次郎は14歳で父を、16歳で母を亡くし、その時点で家の全財産を失っています。しかし、30代の前半には村で二番目の大地主になりました。よく、どうしてそんなことが可能だったのかと尋ねられることがありますが、金次郎のやり方はこうだったと言われています。
   まず、小遣いをためて、二束三文で売られている荒れ地を購入する。ひたすら丁寧に働きを重ね、その荒れ地を田んぼへと変えてゆく。その地が美田へと変貌すれば、買い手がつく。その田んぼは買い手に譲り、売った金額で、また荒れ地を買う。美田を一枚売れば、荒れ地は二枚買えます。そしてまたその荒れ地を耕し、田んぼへと変え・・。と、これを繰り返すと、おおよそ倍々に、所有する田んぼの数が増えてゆくことになるわけです。
   そうやって着実に私財を増やしていったのです。しかし重要だったのは、そんな彼の方法が、あるとき殿さまから「そちのやり方は、村のためになる」と褒められたことでした。この殿さまからのお褒めの言葉は、金次郎にさらに尊い気づきを与えます。そう、それは私のためばかりでなく、世(公)のためにもなることだった・・と。
  わたしは大学院生だった頃、言われたことがあります。学会などで新しいことを発表すると、すぐにそのアイディアが盗まれるから気をつけるようにと。しかし、そのときとても不思議でした。別のひとが一緒にその考えを拡げてくれるなら、むしろ望ましいことなんじゃないかと思ったからです。
   そんな経験からも思うのです。もしかしたら、ひとが自身の苦労を注ぎ込んで開拓した田んぼをひとに譲ることは、意外と難しいことなのかもしれないと・・。しかし実のところ、その譲りが仲間を増やし、財を増やす秘訣なのではないかと。わたしも相手も、私も公も豊かになりゆく道。「財(宝、美田)」の開闢(かいびゃく)が、そんなわくわくどきどきの広がりとともに創造できるとしたら、そんなすてきなことはないと感じますが、みなさま、いかが思われるでしょうか。


相馬市の墓
福島県相馬市西山)

掲載日:2013年6月4日
第25話  金次郎が激怒したワケ

   まぶしい新緑が雨に濡れ、ゆっくりと色を深めゆくこの頃です。うっとうしいような雨も、すっきりとした快晴も、いろいろな天候が入り混じりつつ、たしかに一歩ずつ、季節は進みます。さて今回は、金次郎のあるエピソードをご紹介してみようと思います。
   金次郎という人物は、大柄だったうえ、ずいぶんと迫力ある顔つきでもありました。でも、決して大声をはりあげたりするようなタイプではなかったと言われています。気に入らないことや、腹を立てることがあれば、それはそれは恐ろしい顔をしてにらんだりはしても、決して声を荒げたり、乱暴をしたりはしなかったそうです。ところが、ある日の食事中、突然、みながびっくりするような大声で弟子を叱りつけたと言います。なにがあったのか・・。
   その日、金次郎は漬け物として出されていたタクアンを食べようと、その一切れに箸をつけました。するとそのタクアンが、一切れどころかズルズルと何切れか連なって皿から浮き上がったのです。金次郎は即座に、食事当番だったその弟子に向かって、烈火のごとく怒鳴ったそうです。

   「おまえがしてることはなんだ!切るなら切る、切らぬなら切らぬ!どっちかにしろ!」

   金次郎が語る「報徳」は、一見すると人生論や宇宙論のような、壮大な思想に聞こえるかもしれません。彼が従事する仕事は、幕府の命を受けていたり600もの村の再建であったり、偉大な任務であるようにみえるかもしれません。
   けれど冗談みたいな上記のお話からは、彼が語ることも、日々していた仕事も、実は「タクアンとしっかり向き合う」ことを何よりも尊ぶような類のものだったのではないか・・と感じるのです。つまらないような些細なふるまいを、何気ないと感じる日常の一コマを、自分が立って呼吸しているそんな「現実」を、足場を、こよなく愛し、尊び、大切にしたのが金次郎というひとだった。そして、そんな小さな日常にこそ宿っていたのが、金次郎流のドキドキワクワクだった。・・少なくともわたしはそう感じています。タクアンに、愛しきまなざしを注ぎ、ワクワクドキドキとした心持ちで向き合えるか。そんなところに、人間の「知」や「誠実さ」を見出していたのが、金次郎だと思うのです。


相馬市の墓(愛宕神社)入口
(福島県相馬市西山)


掲載日:2013年4月30日
第24話  季節を味わう

   いよいよ若葉のやわらかなまぶしさが増すこの頃の季節です。色とりどりの花が咲き、タケノコや山菜がおいしい季節。みなさまもそんな春を存分に楽しまれているでしょうか?このように季節ごとの楽しみをもつ日本人ですが、こんなにも自然と近しく親しく暮らす民族は、世界をみまわしてもあまり多くないと言われています。
   中華料理も、ハンバーガーも、パスタやピザも、カレーやパエリヤも・・。各国の料理は、その土地柄を反映していても、季節を反映していることはほとんどありません。かつてフランス料理界の第一人者が日本を訪れて懐石料理に出会い、「季節(旬)を味わう」という発想や、「五感で料理を楽しむ」という技に大変魅了されたと言います。その方が、この感激をもって帰国し、フレンチ界に革命を起こしたそうです。それまでのフレンチは、いまのような形体ではない大皿料理で、季節とも無関係なメニューが一般的だったと言うのです。いまや世界中から注目を集めるフランス料理が、実は日本の食文化から重要な影響を受けたという事実は、なんとなくわたしたち日本人には誇らしく感じられることではないでしょうか。
   わたしたちにとっては何でもないことのような日々の暮らし。四季折々の味わいをもつライフスタイル。自然に対する敏感さをもち、与えられている環境をできる限り楽しむため、知恵や技術を発揮して暮らすその方法。わたしは、長い年月をかけてそっと何気なく培われてきたそんなこの国の風土や文化やライフスタイルが、金次郎を育んだことをつよく感じます。前回お話をした金次郎流の「誠実さ」もまた、ここから生まれたものだと思うわけです。 
   自然に対する敏感さ、それは、自然に対する謙虚さ。謙虚さとは、卑屈さや抑圧とは無関係で、むしろワクワクした楽しさや知恵や、伸びやかな明日への飛躍と深い関係をもつものです。春を愛でて味わう体験は、わたしたちを抑制するどころか、大きな力で明日へと向けてくれるものだからです。健やかな春をたっぷり呼吸しつつ、そんなことを思う近ごろだったりします。 


二宮尊徳像
(福島県相馬市中村)


掲載日:2013年4月8日
第23話  誠実さが生み出すもの

   先日、インテグレックスさんがくださったご縁により、「『誠実な企業』賞2013」の表彰式に参列させていただきました。企業であること、と、誠実であること。もしかしたらまだ、この二つがどことなく「逆説的」にも響く世の中かもしれません。でもこの表彰式のなかでわたしは、鮮やかな希望を感じました。現代社会においても、二つがピッタリ重なる活動が実現できることを、各企業さんの実際の取り組みを通して知ることができたからです。わたしにとっては、まさに終始ワクワクドキドキの連続、とても刺激的な時間でした。
   金次郎は言います。「わが道は、至誠と実行のみ」と。彼は、誠実さが、現場や実践に活力や知恵を生み、結果的に成果や利益もまた豊かになると考え実践していたひとです。このときの誠実さ(至誠)とは、現実をよくみて、目の前の現状に真摯に向き合うことです。どのような現実からも目をそむけない誠実さが、そこにある現実に挑み、工夫を重ねようとする実践を生む。その実践が知恵を生み、技術を進歩させ、困難を打ち破って実りを創造する。その実現のときにこそ、ひとは自身のはたらきへの誇りを体験し、社会もまた豊かになる。金次郎の「道」とはそんなものでした。つまり、誠実であることは、相手のためではなく、むしろ自らの道(人生)に希望や自信という明るさと、実益という豊かさをもたらしてくれる、まずは何より「自分のため」に必要なものだというわけです。
   さらに、彼は誠実であることを、思いやりや愛情のような「情」だけでは考えていませんでした。情のみで捉えようとすると、どうしても越えられない場所があるからです。相性も好き嫌いも生理的な感情も、誰もが本質的に持っています。金次郎は、そうした場所さえ越えることができる「知」の領域として誠実さを捉えます。向き合うこと、知ろうとすること、考えること・・。人間にしかできないそうしたねばり強い知の営みこそ、生産性や創造性としっかり結びつく「誠実さ」の姿だと言うのです。 
   各企業の方々がみせてくださった「至誠と実行」の背中に勇気をいただきながら、わたしもまた誠実さをキラキラしたパワーに変え、小さくても自分の一歩をしっかり重ねゆこう!と、思いを新たにしたひとときでした。 


相馬の仕法


掲載日:2013年2月27日
第22話  つながりが生む豊かさ

   先日、静岡のある会合で山形県米沢市の方と出会いました。名刺を交換したときにその住所をみて、わたしが思わず「家族が大好きで、たまにお世話になる旅館が米沢にあるんですよ!」と言うと、その方が「どこの旅館ですか?」と尋ねられたのでお答えしました。すると、なんと、その方はその旅館にお布団を卸している会社の方だったのです。わたしはこの偶然に、なんとも言えない感動を味わいました。これまでずっと「旅館にお世話になっている」と認識していたけれど、その奥にはもっともっとたくさんの方の存在があり、想いがあり、働きがあり、力があるんだなぁ・・と、あたりまえですがそんなことにあらためて気づく体験をして「じぃ~ん」としたからです。
   金次郎は、士農工商の身分制度を生きながら、その制度を大切に考えていた人物でした。しかしあくまでもそれを、身分の上下(縦の規律)ではなく、ひとの役割(横の連携)を定めているものと捉えていました。彼は、さまざまな職種が連動することではじめてひとの暮らしが成立するのであり、ひとがそれぞれに与えられた場所で最善を尽くし、それらがチームとして動くのが「社会」であると考えていた人物です。農民らしく、商人らしく、藩主らしく・・。各人が仕事に誇りと力を注ぐことが、社会が豊かに機能することだと捉えていたのでしょう。
   布団屋さんは、布団の販売が仕事です。でも同時に、わたしたち家族の旅行を演出し、思い出に華を添える仕事でもあります。どんなに小さな仕事も、かならずその先の大きなおおきな社会とつながっている・・。「わたしは社会の一員である」という認識は、けっして負担や重荷やうっとうしさを増すものではなく、自らの存在の尊さや誇りやワクワクした可能性への実感を増すものなのかもしれません。少なくとも金次郎は、そんな社会との「つながり」を意識することで、自らの仕事である「農」の営みにドキドキワクワクと全身全霊を注いだひとだったのではないかと感じます。前回のお話しした彼の農業愛、農業熱のはじまりは、そんなところにあるのかもしれません。 


二宮尊徳像
(福島県相馬市中村)


掲載日:2013年1月31日
第21話  ワクワクドキドキの掘り起こし

   新しい年が、しっかりと動き出したこの頃です。松の内はすっかりすぎましたが、あけましておめでとうございます。今年は、あらためて金次郎のことを語ることからスタートしたいと思います。
   彼が生まれ落ちたのは、自然災害がつづき、豊かだった村々が荒れゆく時代でした。農家だった二宮家も過酷なダメージを受けます。そのうえ金次郎は、16歳で両親を亡くし孤児となります。農業という営みに、自らの人生に、絶望してもおかしくない境遇です。ところが、彼はこの事態を経験しながら、むしろ農業に魅了されてゆきます。何が彼を農業へと惹きつけたのか。それは、「一粒の種がついには数万倍の実りへと変化する」という現実でした。
   金次郎は、この偉大なる、そして神秘なる変化を生み出す一大事業として「農業」をとらえます。人間にとって最高に創造的な営みだと感じるのです。家族も財産も失い、なにひとつもたない自分でも、農作業に力を尽くすことでこの大いなる神秘や感動を味わうことができる!それが彼の喜びでした。金次郎は農業が大好きでした。農業という営みに誇りを抱き、人生をかけるべく価値を見出し、とんでもない面白さを味わっていたのです。きっと彼は、ある意味で農業マニアであり、農業オタクだったのでしょう。 
   災害が重なる厳しい時代。世では農業離れが加速していました。割にあわない、苦労ばかり、辛いだけ・・。そう感じた農民たちは次々と田畑を捨てます。しかし金次郎は、たとえ苦労や辛いことが多くても、それでも、農作業という営みに宿る尊さや希望やすばらしさを、たしかに感じていたのです。そのことを腹の底から実感して農業に励んでいる彼の生きざまこそ、ともに生きる仲間たちの眠れる情熱を目覚めさせたのではないかと思います。そしてついに、金次郎の農業愛というたった一粒だった種は、600以上もの村々の農業熱へと変化してゆくのです。
   金次郎が手がけた農村再建は、きっとこんな「ワクワクドキドキの覚醒」を根っこに持つことで、劇的な広がりをみせたのだろう。少なくともわたしは、そんな風に捉えていたりします。どうか今年、たくさんのワクワクドキドキが再燃し、希望の輪が広がる一年となりますように・・。



掲載日:2012年12月26日
第20話  それでも踏み出す一歩

   ご無沙汰してしまいましたが、さっそく今回のお話に入りたいと思います。
   これは、北海道のある町の電機屋さんのお話です。この会社の社長さんは「どうせムリ」という言葉が大嫌いでした。そこで、世界からこの言葉をなくすため、自分たちのちいさな町工場でロケットを作ってやろうと決意します。予想通り、誰もが「そんなことどうせムリに決まってる」と言いました。だからこそ、国や政府の援助を受けず、しかも従来の仕事も継続しながら、ロケット作りをはじめました。
   なんといま、この会社にはNASAの人間たちまでが視察に訪れます。ロケットを作っているのは、社長さんはじめ社員さんたち。もちろん専門家などひとりもおらず、大卒の人間さえほとんどいない。そんなみんなが必死で勉強して、実際にやってみて、思い通りにならないことも繰り返し体験して、相談して、試行錯誤して・・。そうやって一歩一歩を重ねるなかで、よき専門家たちとの縁も生まれ、少しずつ少しずつ進んできたと言うのです。ちなみにロケットの部品は、いまや大抵が日本のおもちゃ屋さんやホームセンターで調達できるそうです。子どもたちが遊ぶゲーム機などを分解すれば、それはそれはたくさんの使える部品があると、社長さんは笑っていました。 
   社長さんは言います。「絶対に失敗しない方法は、あきらめないこと」と。あきらめた途端、それは失敗や挫折といったネガティブなできごとになる。けれど、それを「問題」ではなく新しい「課題」ととらえ、工夫や改良を重ねれば、それこそが成功へと近づくための大切なできごとになると言うのです。
   うまくゆかないことや苦労や困難は、ひとを傷つける敵ではなく、ひとに成長や学びを与えてくれる味方なのだと、そんな言葉にも聞こえました。また、この会社でのロケット作りの過程は、まさに金次郎の農作業そのもののようにも感じられました。金次郎少年の像を指して、「あれはね、本を読むのも大事だけど、どんな状況でも薪を背負って働くこと、そして足を一歩前へと踏み出すことを忘れてはいけないと伝えているのよ」と語り、いつも背中を押してくれていた祖母を思い出したりもしました。

 二宮尊徳終焉の地(栃木県日光市今市)

今市の報徳二宮神社

今市の尊徳のお墓


掲載日:2012年11月2日
第19話  輝きを生む関係

   前回の青年のお話を、もう少しだけつづけてみたいと思います。
   そのできごとが起きたのは、彼が島のお年寄りたちを集めたときのことでした。かつて島で利用されていた馬具を博物館から借り受け、この馬具を馬たちに装着し、デイケアーの場に連れて行ったのです。そして彼は言いました「おじぃやおばぁに、久しぶりに馬たちとふれ合って欲しい。そして、この島の昔のことをいろいろ聞かせて欲しい」と。突然やってきたこの青年と、古くからここに住むお年寄りたちとの間には、はじめはかなりぎこちなくよそよそしい空気が流れていました。それでも、馬を触ったり、撫でたりしているうちに、お年寄りたちの顔は明らかに和らぎ、ほがらかなものへと変化し、馬たちとの思い出話があちらこちらではじまったのです。
   そんなときです。この場で最高齢となる100歳のおじいさんが、細い腕に渾身の力を込めて、車いすから立ち上がろうとしました。普段はめったに歩くことがないというこの方が、「馬に乗りたい」と意思表示をし、馬に近づこうとしたのです。周囲のサポートによって馬に乗ったこの方を支えながら、青年は驚いたように言いました。「すごい、ちゃんと自分でバランスをとっている!ずっと馬に乗っていたことがよく分かりす・・」と。馬の上にいるこの方が、背筋をピンと伸ばし、車いすの上とはまったく異なる自信にあふれた明るい目をされていたことは、深く印象的でした。 
   ともすればわたしたちは、お年寄りを助け、サポートすることのように、彼らに「与える」ことが正しく必要なことであるかのように感じたりもするものです。しかし実のところそれは、先輩方から「与えられる」ものが多いことを忘れてしまいがちな、傲慢な発想なのかもしれません。金次郎という人物は繰り返しました。本当に相手のためを思うとは、相手に敬意を払うことであり、そのためには、決して相手を「受け手」に閉じ込めてはいけない、と。
   この青年の姿に出会い、いまいちど、相手の命がキラキラと輝き出すような、相手の主体性や尊厳を活かす(生かす)ような、そんなかかわりの在り方について考えさせられました。

 二宮尊徳終焉の地(栃木県日光市今市)

尊徳像

今市田植え唄




掲載日:2012年10月4日
第18話  ある青年の姿を通じて

   先日、何げなくテレビをみているなかで、大阪から久米島に移住したある青年とその家族の物語に出会いました。彼は馬を2頭飼い、一般的な乗馬だけでなく、海中の乗馬体験など、さまざまなカタチで馬とふれ合う機会を提供する仕事をしていました。久米島において何と言っても大きな魅力は「碧い海」です。だからこそ、たとえばスキューバ-ダイビングのような海遊びの提供なら理解できても、なぜ馬?これは彼自身もよく問われることだそうです。 
   実は、機械や車がこれほどまで普及する以前-いまからほんの少し前まで-、人びとが馬とともにサトウキビ畑を耕し、買い物をし、暮らしを営んでいた。それがこの島だそうです。彼はそのことを知り、いまいちど馬たちとともに、この島の暮らしに息づいていた文化をよみがえらせ、それを島の子どもたちにも伝えてゆきたいと思ったそうです。そのためにまずは各地で馬の勉強をし、実地体験を積み、そしていざ、この島へと移り住んできたのだと言います。
   けっして生活がラクではない彼らは、自身で畑を耕したり、海にもぐって魚を獲ったりもします。そうしながらもキラキラした笑顔でさかんに繰り返すのです。「自分たちの暮らしは、島のひとが家族みたいに支えてくれているおかげで成り立っているんです」と。「とっても充実した幸せな暮らしに感謝しています」と。 
   南の島への移住というと、一般にはスローライフや海への憧れといった自身の生活をより満足させることを目的にしたものが多い気がします。しかし、移る土地のため、文化のため、子どものためという移住をし、さまざまな課題をも切り拓いてゆく努力を惜しまず、かつ、こころからそのことを楽しんでいるこの青年の生きざまに出会い、わたしはなんだかとっても感動をしたし、力強い希望や勇気をもらった気がしました。そして、まさにこうした姿こそ、金次郎が荒廃した村の再生のために故郷を離れた姿などとも重なるのではないかと思いました。自己犠牲でも忍耐でもない、もっと自然体の、もっと明るく輝いている、そんな姿です。
   次回は引きつづき、この番組のなかでもっとも印象的だった話についてご紹介してみたいと思います。


桜町陣屋跡
                          
尊徳没後の復興事業の地 相馬





掲載日:2012年8月17日
第17話  「わたし」を開花させるもの

   連日連夜だったオリンピック放送の寝不足も、そろそろ解消された頃でしょうか。スポーツにとんと疎いわたしでさえ、やはり選手たちがみせるドキドキワクワクな感動には魅了された日々でした。ところでお気づきでしょうか、選手たちのインタビューに、かつては聞き慣れなかった「感謝」とか「恩返し」というタームがしばしば登場したことに・・。 
   近ごろのスポーツ界における指導方法は、かつてのそれとはずいぶんと違っていると言います。ある時代まで、スポーツ界では「弱き者を蹴落として金メダルを奪い取れ!」といった「競争」「奪い合い」といった弱肉強食的な発想が一般的でした。そうやって敵である世界に意識を向けながら、選手たちは時にストイックなまでの孤独な戦いを強いられてきました。
   しかし、昨今はこれを大きく転回し、「共存」や「活かし合い」によって力を発揮させる方法がとられています。懸命に力添えをくれる大切なひとやスタッフたち、応援しているファン、そして自分に負けてオリンピックに出られなかった仲間の選手たち・・。そこへの気づきから、まずはこの舞台で競技できる幸せを充分に味わうこと、注がれているエネルギーを確認すること、そうやってガソリンを満タンにしてからエンジンをかける、という方法です。闘う「敵」をではなく、味方に支えられている「自分」を意識する。そのうえで、自身がすべきことは、目の前の競技に誠心誠意のベストを尽くすこと!という流れを生むのです。このような流れだからこそ、そこでの結果もまた、自分一人の満足にとどまらず、それら仲間たちとともに味わい共有することができる無限の喜び(実り)となるわけです。 
   実はこれこそ、金次郎が農村再建において通底させた「報徳」という指導方法とぴったり重なるものです。自然による災害や領主らによる理不尽な搾取がつづくなかで、敵である世界への不満から、一揆などの「闘い」や「奪い合い」が横行していた時代。それでもなお、金次郎は一人ひとりが受けている「徳」への気づきを喚起し、自身へと目を向けさせます。多くの愛情に支えられたこの身だからこそ、目の前の状況に簡単に屈することなく「工夫」にむけ精一杯の力を尽そうじゃないか!そう言って農民たちの「恩返し」実践に火をつけたのです。
   江戸と現代、ひとの底力を覚醒させる指導方法は、意外にも重なるのかもしれません。

桜町陣屋跡(栃木県真岡市物井 旧二宮町)


桜町の報徳二宮神社





掲載日:2012年8月3日
第16話  実りは現実のなかに

  じりじりとした太陽が容赦なく照りつける毎日。緑たちも一層に深まり、いよいよ今年もまた夏本番!となってきたこの頃です。 
   みなさまはこの暑さのなか、ふと、「あぁ、こんな季節なんてなければいいのに・・」などと感じてしまうことはないでしょうか?あるいは、これだけ社会の不景気がつづくと「こんな時代でさえなければ幸せに暮らせるのに・・」と呟いてみたり、苦手な相手との間にイヤなことが起きると、「あんな奴さえいなければ辛い思いをしなくて済むのに・・」と嘆きたくなったり・・。これまでの数回、金次郎が不遇とも思える現実とどのように共存をしてきたかをお話ししてきましたが、実は、ここに隠された秘訣のひとつに、これらのネガティブな発想をポジティブな発想へと転回することが含まれているとわたしは考えています。
   金次郎は、このような「○○でさえなければ・・」と現状(相手)を否定したり、嘆いたりする発想は、すべて非現実的な妄想であり、きれいごとでしかないと考えていた人物でした。目の前の現実は「○○」なのであり、すべてはそれを覚悟して受け入れることからしかはじまらないと。「実り」はどんなときも現実のなかにしか生まれないという、あまりにもシンプルな事実にこだわりつづけた姿勢と言ってもいいかもしれません。一見するととても厳しい姿勢のようにも感じますが、裏返してみると、どんな現実のなかにもかならず「実り」が生まれるはずだと、楽観的なまでに信じていたのが金次郎なのだとも言えます。 
   現実逃避をしてラクになるならともかく、実は「○○でさえなければ・・」というネガティブな妄想に入り込むことは、わたしたち自身を迷走させ、ますます辛くしてゆくのではないでしょうか。絶望を生み、明日への活力を奪ってしまうような気さえします。金次郎のように、いつもどこかにたしかな希望を見出しながら、顔をあげ、前を向いて、思い切って「現実」のなかに小さな一歩を踏み出せたなら、意外とすんなりと「何か」が生まれるかもしれません。
   楽観的すぎる発想かもしれませんが、みなさまが少しでも明るいこころもちで、この夏も健やかに乗り切れますように!

桜町陣屋跡(栃木県真岡市物井 旧二宮町)

桜町尊徳資料館

一円融合 記念碑





掲載日:2012年7月4日
第15話  共存への第一歩がある場所

   大好きなクチナシが香る季節も、そろそろ終盤です。わたしが住む京都にはあちこちにこの花が植えられていて、この季節はすてきにかぐわしく華やかな心持ちになります。 
   さて、前回は秋ナスの事例を紹介しました。金次郎は、人間の知恵や工夫さえ発揮すれば(米から雑穀への植え替えさえすれば)、敵ともみえるような相手ややっかいな状況(冷夏)をも味方にし、それらと活かし合い、共存する道があると考え実践を重ねます。この発想の根底には、たとえ相手(自然)がどのような顔を見せても、自分(人間)の「仲間」なのだと信じる、一貫したつよい信頼感が流れているようにも感じます。
   彼はこの発想を、単なる理想論に終わらせず具体的に実現してみせたわけですが、そのための第一歩は「秋ナスの味が分かった」という場所にあります。一見するとこれは金次郎の特殊能力のようにも感じますが、農業人によるとそうではないそうです。少なくともナス農家の人間なら誰もが、皮の固さ、色つや、甘み、水分など、夏ナスと秋ナスの違いは明らかに判別できると言います。また、金次郎の判断も、ナスの味だけが根拠ではありませんでした。彼の日記には、初夏に菊の花が咲き始めた、芋の根の伸び方が遅い、川の水かさが例年と異なる・・などの記述が残されています。これらはどれも、地道とも言える小さな現実観察です。特殊能力や才能による知見ではなく、むしろ、いわば誰しもが少し注意をし、関心を向ければ気づくことができることばかりなのです。 
   このようにみるとき、金次郎が徹底して「相手から学ぶ」ことを基本姿勢としていたことが明らかになります。彼は、暦やカレンダーという人間が作り出した尺度、マニュアル、常識を出発点にして季節を知ったのではなく、あくまでも目の前の状況や相手を自らの目と感覚で観察し、味わうなかで季節を知りました。この姿勢こそが、活かし合いという工夫と知恵と実践とを生み出し、さらには「実り」を創造したのです。自分がもつ価値観や固定観念を一方的に相手にあてはめて物事を判断するのではなく、相手を知ろうとすることからはじめる。それこそ金次郎が貫いていた方法でした。少し長くなりましたが、次回もさらに、このテーマをつづけたいと思います。 




掲載日:2012年5月31日
第14話  冷夏との活かし合い(ある事例から)

   たとえどんな相手であろうとも、徹底して「活かし合い」の関係へと向かおうとしたのが金次郎という人物だった。前回は、そんなお話をしました。今回は、もう少し具体的な事例をご紹介しながらお話を進めたいと思います。 
   それは、ちょうどいまと同じ初夏の頃のことです。やわらかな若々しい緑が、あちこちでまぶしく輝く季節。農民たちにとっては田植えという大切で大変な季節仕事が終わり、ちょっぴりほっこりするような、そんな頃です。金次郎はいつものように食事をしている途中、急に形相を変えて家を飛び出してゆきます。そして近所の農民たちを集め、必死に訴えるのです。「いま植えた米の苗を、急いですべて抜きなさい!」と。正気の沙汰とも思えない言葉に驚かなかった農民はありません。 
   金次郎のこの言動は、その日の食事に出されたナスの漬け物が「秋ナス」の味がしたことが大きなきっかけになって生まれていました。カレンダー(暦)はいまが初夏だからこれから夏が来ると伝えているのに、ナスはまったく違うこと(いまが秋でこれから冬が来るということ)を伝えたと感じたのです。秋ナスの味は冷夏の到来を告げている、と捉えたわけです。 
   米は寒さに弱い作物ですから、今年は米が実ることはないというのが彼の判断でした。そのため米の苗を抜き、代わりに、寒さにつよく、寒さを利用して生育できる稗や粟などの雑穀を植えるよう指示したのです。この判断により、村では植え替えを敢行します。するとこの年から数年に及び、この国には夏が訪れませんでした。いわゆる天保の大飢饉の襲来です。各地の農村では餓死者を続出し、日本の人口は激減します。しかし、金次郎の村ではひとりの餓死者も出しませんでした。彼の村の田畑は、この自然状況下でもなお、ちゃんと「実った」からです。 
   彼は、夏の寒さそれ自体が悪いのではないと考えていました。それは米にとっては「害」になるけれど、雑穀にとってはむしろ「仲間」にさえなり得るからです。人間が、その寒さを「活かそう」と知恵をはたらかせ、工夫をしさえすれば、夏の寒さも味方につけることができると言うのです。「冷夏」をなくすことはできなくても、「冷害」を防ぐことはできるということです。 
   この事例に典型的にみられるように、金次郎の実践方法はいつも一貫して、たとえば夏の寒さのような一見敵にもみえるような相手など、どんな相手、どんな現状とも「活かし合い」に向かおうとするスタイルをもっていました。このスタイルをめぐって、次回からはさらに丁寧に考えを重ねてみたいと思います。




掲載日:2012年4月24日
第13話  知ろうとすること

   華やぐ桜色の季節。はじまりの4月。美しい桜吹雪が舞うこの頃です。さて、前回は梅の花の香りから思い出された懐かしさの感覚からお話を進めました。なおまったくの余談ですが、このことをめぐってあれこれ考えているうちに、小さな頃のできごとを思い出しました。小学校5、6年生の頃、家にあった石油ストーブの匂いが大好きだったわたしは、よくこの匂いをかいで悦に入っていましたが、ある日「もっともっと・・」と近づきすぎて、鼻の頭をやけどしてしまったのです。さすがにこのようなことをしでかすにしては年齢が大きくなっていた自覚もあり、なんと言い訳をすべきか悩みつつ、ほんとうに恥ずかしい思いをし、やけどが治るまでの期間をあまりにも長く感じたものでした。こんな具合でしたので、もしかしたら「匂い」は、わたしにとって、いろいろなものと出会うための大切な「窓」なのかもしれません。
   金次郎は、自らの五感を通して世界に出会い、そのものを知ることを大切に考えていました。彼は農地を再建しようとするとき、まずはその地の田畑の「土を食べた」と言われたりもしています。その土はどのような性質をもち、どのような成分をもち、なにをどのように作るのがふさわしいのか・・。そのことを、目の前の土との対話から見出そうとしたのです。水分の量、寒暖の有無、養分の具合、水はけの状態・・。それぞれの特質自体は、善悪や優劣の区分をすべきものではありません。かならず、その土に適した作物があり、その土だからこそ実らせることができる作物があるからです。金次郎は、与えられた目の前の土を最大限に活かす道を摸索することこそ、人間の「知恵」であり「工夫」であり、「農」という偉大なる人間らしい営みだと信じていたのだろうと思います。
   目の前のものを知ろうとすることとは、そのものへの敬意をもち、愛情をもつことかもしれません。どのような相手とも、協同し、活かし合い、豊かな「実り」へと向かおうとする姿勢とも言えます。・・余談などを書いていたら、彼の具体的な事例をご紹介しそびれましたので、これはまた次回へと引き継ぎたいと思います。



掲載日:2012年3月19日
第12話  梅花の香り

   あちこちの梅の花々が、静寂な冬景色にやさしい彩りを加えはじめました。ようやく少しずつ、春の訪れを予感させる風に出会う頃となりました。
   先日、北野天満宮(京都)の梅園にゆきました。ぽかぽかと陽光のあたたかなその日は、前日に降った雨のせいか、梅花の香りがあたり一面に満ちていました。わたしは思わず梅の木に近寄って、鼻を近づけて梅の香りをかいでしまいました(ちなみにこんな時は、自身の背の高さをちょっぴり有り難く思います。ちょっと背伸びさえすれば充分に花に顔を近づけることができるからです!)。と、そのとき思いがけず驚きの体験をしました。花の香りをかぐと、小さな頃の感覚がありありと鮮やかによみがえってくるような、不思議な心持ちでいっぱいになったのです。日が暮れるまで外遊びに夢中になっていたあの頃、小さくも生々しい自身の世界を必死で生きていたあの頃・・。ほとんど忘れかけていたそんな懐かしい頃の光景が、身体中に充満してくるようなワクワクする感覚でした。考えてみると、たぶんあの頃のわたしは、いまよりもずっと花や草や土の匂いの近くで生活していたのではないかと思います。
   人間の五感のなかで「嗅覚(匂い)」がもっともつよく「記憶」と結びついていると聞いたことがあります。ですから、たとえば旅行ごとに異なる香水を利用すると、香水の匂いと旅の思い出がセットで記憶に刻まれ、のちにその香りさえかげば鮮明に記憶を想起することができるとか。ともあれこの日のわたしは、その後、花の香りから引き出された独特の懐かしさに胸を躍らせ、ピンクや白や紅色の梅のそれぞれの花の香りを、人目も気にせずくんくんくんくんとかぎ分けたりして遊んで(?)しまいました。
   この国には季節があり、季節ごとに自然たちはさまざまな風景を魅せてくれています。季節が違えば、咲く花も、風のにおいも、さえずる鳥も、とれる作物も、陽光のやわらかさも・・違います。ついつい忙しく走りつづけ、そんな風景を見過ごしてしまいがちな日常ですが、目の前のものたちとの出会いのなかで、そんな違いを楽しめる隙間(ゆとり)をもつことは、ドキドキワクワク生活への大切な一歩になるような気がします。この日の梅花との出会いから、あらためてそんなことを強烈に感じました。次回は、その辺りのテーマを、金次郎の事例とも絡めつつ考えてみようと思います。




掲載日:2012年2月21日
第11話  ひとを動かす力 その2

   凜とした空気の潔さが心地よく、つめたくも美しい景色が広がる季節です。ふと立ち止まり、四季折々、日々変化の風景をあらためてながめるとき、なんとも贅沢な嬉しい気持ちが満ちてくるような気がします。さて、期間があいてしまいましたが、前回のエピソードをめぐってもうすこしお話をつづけたいと思います。
   子ども時代のみなさんには、何か将来「なりたいもの」がありましたか。お菓子屋さん、宇宙飛行士、サッカー選手、花嫁さん、学校の先生・・。このとき多くの場合、自分の能力や偏差値からなりたいものを決めることはないでしょうし、それで食べていけるかどうかを考えて決めているわけでもないでしょう。なんと言っても、このとき重要になるのは「あこがれ」ではないでしょうか。その職業が、どんなすばらしい輝きをもち、意味や価値をもち、かっこよさをもっているか・・。それこそが子どもたちのこころをワクワクドキドキと踊らせ、動かすのです。だからこそ大人たちは、それが幼すぎる夢物語だと、あるいは非現実的な理想でしかないと笑うかもしれません。しかし、もしかしたらこのとき幼き者たちの目は、ある意味ではたしかに「仕事」の本質や原点の一端を捉えているのではないか、と思ったりもします。
   ネジ工場でのエピソードのように、ひとを動かすのはお金ではないような気がします。自分がお金を貯めてゆくことで得られる満足は、どこまで追求しても一抹の足りなさや虚しさを残すのではないでしょうか。むしろひとを内側から動かすことができるのは、その仕事に対する誇りではないかと、少なくともわたしはそう感じています。誰かを喜ばせたり、楽しませたりすること、誰かに必要とされること、それに応えることで、誰かが自分に大切な想いやまなざしを向けてくれること・・。そうしたワクワクドキドキの連鎖こそが、その仕事をすることの輝きとなり、誇りとなり、勇気や希望とともに、明日もまたそのひとをその仕事へと向かわせる力になるのではないかと思うのです。
    ひとは、かっこいいあこがれの背中に出会うとき、それを追おうとして自ら走りはじめる。そして、誇りという灯が胸にともることで、自ら奮起してますます走りつづける。わたしは「仕事」をそんなイメージとともに捉えています。





掲載日:2012年1月24日
第10話  ひとを動かす力

  さて突然ですが、みなさまは次のようなエピソードについてどのようにお考えになるでしょうか。
   ある工場で、小さなネジを大量製造していました。この工場には、ひとつの課題がありました。急な大量受注を喜べないという課題です。急な受注は、経営サイドにとっては大きなチャンスであり喜びですが、社員にとっては労働時間が増えるやっかいなできごとでした。割高の休日手当や厚遇を持ちかけても、積極的に時間外労働を引き受けてくれる社員は皆無でした。「お金よりも休みが欲しい」「なんでわたしがしなければいけないのか」それが率直なる社員の思いだったのです。
   さて、みなさまがこの事態を転回しようとするならば、どんな策を打ち立てるでしょうか。素朴には、休日手当をうんとはずむとか、強制的な会社命令にしてしまうとか、別の人員を新たに雇うとか・・そうした策を思われるかもしれません。いわば、お金や命令などによって、なかば強制的にでも動かそうという発想です。しかしこの工場は、まったく別の手立てでこの事態を変化させてゆきました。社員が自らすすんで積極的に動き出すシステムです。
   このとき工場長が取り組んだことは、社員たちにネジのドラマを語ったことでした。この一本のネジを使用した製品が、ゆくゆくどれほど世の役に立つのか、そこにどれだけ多くの生活がつながってくるのか、どんなに多くのひとを喜ばせるのか・・。こうしたドラマを、熱い想いを込めて、繰り返し、語りつづけたのです。すると次第に、社員のうちに手応えやプライドや充実感や使命感や責任感が芽生え始めます。自分たちが手がけているのは、単なるお金を稼ぐためだけの「作業」なのではなく、ひとの役に立つかけがえのない「仕事」なのだという自覚です。そして、ぽつりぽつりと、「そんなに大事な仕事なら、わたしがやりましょうか」と主体的に申し出てくれる社員が現われ始め、受注に応じることができるようになってゆくのです。
   というわけで、次回はこのエピソードを巡って、もう少しお話しをつづけたいと思います。





掲載日:2012年1月4日
第9話  「徳」との出会い

   東日本大震災や、それにともなう原発事故をはじめ、先の見えない世界的な経済不況など、あまりにも多くの課題が噴出した2011年がゆき、いよいよ新しい年がやってきました。あらためていま、一体なにが豊かさや幸せなのかと、そんなことを考えさせられる機会が増えているような気がします。
   さて前回は、金次郎が考えていた「徳」のお話をしました。彼が生きたのもまた、繰り返された自然災害などによって、農民たちの困窮や貧しさが極限にまで押し進められた逼迫した時代でした。必死で努力しても報われない、悪いことなどしていないのに災厄が重なるように降りかかる・・。悪夢のような絶望に覆われ、農民たちが希望も気力も失い、心田も田畑も荒廃した時代です。この時代を生きた金次郎は、それでも独特の実践方法によって各地の荒廃を切り拓き、次々と村を再建します。心田にも田畑にも、実りを復活させるのです。その実践の原点となるのが、前回お話をした「「徳」との出会い」の場所です。
   金次郎は、自身が生きている現状を悲観的にとらえ、目の前の現実を呪ったり、否定したりすることは自分自身をもっとも悲惨な事態へ向かわせると考えていました。その発想や嘆きは、傷を作り出して悪化させ、不幸感を充満させ、ついには自身から希望という心田の果実を奪うからです。さらに彼は、現実の悲劇—目の前の田畑の荒廃—は、実はこの心田の荒れ地化が原因となって引き起こされていると考えていました。心田の実りを失うことは、ひとの実践力や、実行するためのエネルギーを失うことであり、そのため結果的に田畑の実りを失うことだと言うのです。人間に、生命に、物たちに、現実に、この世界に、たしかに息づくドラマがもつドキドキワクワクした感動、生きて在ることの希望や喜び・・。それらを呼び覚ますこと。カタチある現実生活の豊かさ(田畑の実り)のはじまりはそこにある。それが彼の発想でした。
   しかしそれでもなお、この発想が理想論のように響くかもしれません。それほどまでに、現在の生活世界には厳しさがあるかもしれないとも思います。次回はこの点について、さらにある具体例に即しながらお話してみたいと思います。
   みなさまにとって、2012年が健やかなる希望の育まれる一年となりますように・・。





掲載日:2011年12月26日
第8話  ドラマが生む豊かさ

   早くも一ヶ月が過ぎてしまいました。さっそくつづきのお話をいたします。
   前回は「目には見えないドラマ」のことを描きました。無機質な物体や物質としての「モノ」の世界とは違う、物語やドラマやロマンや想いが込められた「もの」の世界。何気ない石ころや葉っぱも、幼い日にはきらきらと輝いて見えていました。祖母や母が大切に身につけていた指輪には、物質(モノ)としての価値以上に、物語(もの)としての価値や尊さがあります。わたしたちの国は「ものづくり」の国とも呼ばれますが、それは手先の器用さやまじめに製造することを指す以上に、想いを込めて「もの」を生み出すことに長け、そうして「もの」に込められたドラマを受け取ることに長けた、国や民族であるという意味なのではないでしょうか。ひとは、決して物体に囲まれて生きているのではなく、そうした物語に包まれて生きているのだと、金次郎は考えていました。そして彼は、そうした物語やドラマのことを「徳」と呼んだのです。「あらゆるものは徳をもっている」。これが、彼が生きた世界体験でした。
   現代は、溢れるほどの豊かさを享受しながら、なお満ち足りなさを感じる時代だと言われます。それは物から物語が欠落し、ただのモノになり下がることからきている事態ではないでしょうか。この満ち足りなさは、「数」で埋められるものではありません。物語に―つまり「徳」に―、気づき出会うための目や感性こそがその足りなさを埋めてくれる鍵になります。金次郎は、ひとが相手(物やひと)の「徳」に出会うことで得るドキドキワクワクしたあたたかな体験こそが、ひとを豊かさへと導くと言います。ただしこのとき彼にとって重要だったことは、この「豊かさ」が、今回お話ししたようなこころの豊かさだけではなく、現実的・経済的・具体的な生活の豊かさへと向かう点だと言えるでしょう。金次郎は常に「心田の実り」と「田畑の実り」とをともに視野に入れていました。単なる綺麗事や道徳至上主義の精神論ではなく、より実際的な生活現場を決して離れない発想こそが、彼の真骨頂と言えます。この点については、さらに次回のコラムで展開してみたいと思います。





掲載日:2011年11月24日
第7話  宝物との再会から

   みなさんには「宝物」がありますか? 先日、部屋の片づけをしていると、幼い頃の宝箱が出てきました。なかからは、大好きだったキャラクターのシールや、友だちがくれた小物や、どこかで拾った石ころや、動物のピンバッジなどが出てきました。いま見れば、どれも他愛ないものばかりです。きっと他のひとなら「ガラクタ」と間違えてしまうでしょう。でもそれらが箱から出てきたとき、「他愛ない」と見える大人になったわたしの目と同時に、「大切な宝物」と見えていた幼き日のわたしの目が、まるで重なるような体験をしました。たしかにあの頃のドキドキがよみがえってきたのです。なんだかとてもなつかしく、不思議な気分でした。
   日本人は、とても桜が好きな民族です。おそらくどんな土地にも桜はあるし、花咲く頃になれば、ひとは桜を求めて旅をしたり、宴を開いたり、散歩をしたり、詩を詠んだり、絵を描いたりします。たとえ特別なことをしなくても、それはなにかを「想う」季節ではないでしょうか。ところが海外では、日本人がそんなにも桜に熱中する理由が理解できないようだとも言われます。妹の友人であるスペイン人は「日本の桜にはチェリーがなるの?」と尋ねたと言います。あんなにも世話のために手がかかり、にもかかわらず花咲く期間が驚くほど短く、さらには果実もならない・・。そんな非合理的で、非効率的な木を、日本人はなぜそんなに大事にするのか、というのが素朴な感想なのでしょう。他方で多くの日本人は、そんなことを微塵も感じず、あたり前のように桜との時間を楽しみます。桜を自身の人生と重ねたり、桜が生きていた歴史をイメージしたり・・。その木の奥に息づく目には見えないドラマを想い、愛おしむ力は、もしかしたら日本人に特有の、極めて日本人らしい、そんな感性なのかもしれません。
   わたしが他愛ないものたちに見た「宝物」というドラマや、ひとびとが桜に見るさまざまなドラマ・・。目には見えない、科学では証明できない、でも、たしかに見ることができるもの・・。実は、金次郎もまたこのことについて語っています。次回はそのお話をゆっくりしてみたいと思います。






掲載日:2011年11月9日
第6話  「ひとのため」が生まれる場所

   前回、実は「ひとのため」という想いは、相手である他者にとっての必要性というよりむしろ、自分自身にとっての必要性があるのかもしれないというお話をしました。自身がより一層活かし、大きな力を発揮し、生き生きとした手応えをもつ幸福を体験するためにも必要なのかもしれない・・と。
   ではどうすれば、そんな想いや実践が自身に芽生えるのでしょうか。金次郎はそんな問いに対して、それは「受けること」「知ること」「気づくこと」から生まれると応じます。彼は、通常ひとは、いきなり自分の実践について考えようとするけれど、それは間違った発想の仕方だと考えました。ひとは、誰しも自分を第一の出発点にすることはできないと言うのが彼の一貫した主張だったのです。たとえば、ひとは自身がひとのためと「想う」以前に、すでに自身がひとのためと「想われて」いる存在だと言うことです。親としてのわたしが子どもを「想う」とき、しかしそのわたしは、すでにわたしの親からすれば子どもとして「想われて」きたのであり、出発点はむしろ後者の体験なのだ、と。
   「ひとのためを「想う」ならいつかは報われる、だからがんばろう」という考えは、正しいのかもしれませんが、これで実際に実行できるひとはどれほどいるでしょうか。他方、こうした見返り的発想を切り替えて、金次郎は恩返し的発想を提案します。「わたしたちは充分に「想われて」きた、だからその想いに報いてゆこう」と。楽観的すぎる発想かもしれませんが、でも、なんだか奇妙な力みが少しだけ抜けるような、実践のためのあったかなエネルギーがじんわりとお腹の底にわくような、そんな気分にならないでしょうか。
   前回、前々回とお話をした北海道開拓の方が「子や孫のため」というつよい想いを抱かれた出発点にもまた、その方自身が「子や孫のため」と「想われて」きた体験があったのではないでしょうか。そして、その体験への自覚や、気づきや、積極的な受け取り(感謝)こそが、この方の実践(子や孫のためと想い、行なうこと)のエネルギーとなったのではないかと、勝手ながらわたしはそんなことを感じました。





掲載日:2011年10月20日
第5話  『「子や孫のため・・」の響き その2』

   さっそくですが前回のつづきになります。北海道開拓にたずさわったあるお爺さまが幼い孫に語った言葉。「わたしの時代にこんなに豊かに暮らせるようになるとは思わなかった。わたしはお前たち孫や子どもが豊かになればとの思いだけで、この土地に開拓に入ったのだ・・」。
   わたしはこの言葉に出会い、開拓という想像を絶するような過酷な状況を乗り切るための力の源を知った気がしました。それはつまり「ひとは、守るべきものがあるとき、そして幸せにしたい誰かがいるとき、そんなときこそ自身を大きく越えるような力や強さを発揮するのではないか」との思いでした。
   たとえばかつて、超人的な活躍で日本チームを世界一へと導いたソフトボールの上野由岐子投手が「監督のためにどうしても優勝したかった。自分のためだったら、きっとこんなにがんばれなかった」と語りました。またフィギュアスケートの安藤美姫選手は「震災で傷ついた日本のために、みんなに少しでも笑顔を届けたいと思って滑った」と言い、みごとに金メダルを獲得しました。もっと身近には、わたしの母もよく「一人きりのときにはごはんを作る気力がわかないけど、家族のためと思えばいろいろアイディアが浮かんでくるし、楽しんでごはんが作れるから不思議だわ」と言います。
   たしかに一見すると「ひとのため」ということは、「自分のため」を犠牲にし、自身の力を抑圧し、制限し、自己を損ない、傷つけてゆくことのようにも考えられがちです。しかし実はむしろ、「ひとのため」こそが、自身の内に底力のような途方もない力を開花させ、自分をより一層強くし、自らにたしかな幸福感や手応えを与えてくれるのではないかとも感じるのです。個性の尊重、自己実現、自分探し・・。そんな風に「自分」ということにこだわりすぎること、「自分のため」ばかりに意識を向けすぎることは、実は自身の力や強さや幸福感や手応えを手放すことになり、結果としてかえって「自分」を小さくしてゆく、あるいは見失ってゆくことになるような気さえするのです。
   北海道の開拓。言葉ではあらわせないほどの辛さや、苦しさや、厳しさがあふれていたであろう営みを、それでも乗り切ることができた強さや実行力は、まさにこの「ひとのため」「子や孫のため」が生み出したものだったのではないか、わたしはそんな風に感じました。次回は、この「ひとのため」が、一体どこからどのようにして生まれてくるのか、についてさらにもう少し考えてみたいと思います。



掲載日:2011年10月13日
第4話  『「子や孫のため・・」の響き その1』

 先週、少し遅めの夏休みをとって母と二人で北海道十勝に位置する豊頃町二宮へと出かけました。というのも、実はここは、金次郎の孫である二宮尊親が仲間とともに開拓に入った土地だったのです。この地では現在も、このとき開拓をなさった方のご子孫の方々が住まわれ、当時開拓された地を継承し、さらに拡大もさせつつ農業が展開されています。昨夏、偶然にもそのなかのお一人とのご縁ができ、今回の旅行が実現しました。先祖がお世話になり、愛され、そして現在に至るまで彼のお墓を守り、彼のためのお祭りを大切に執り行なってくださっているこの土地や、この土地の方々への御礼がしたい・・と、そんな思いで、わたしは北の大地へと向かいました(しかし実際には、御礼をするどころか、たっぷりたっぷりと地元の方々にお世話になり、わたしたちまでもがさらなるご恩を受けてきてしまったのですが・・)。
 わたしはこの旅において、ほんとうに多くのことを学びましたが、なかでも知人がお話しくださったことは特に印象深くこころに残っています。その方は、お爺さまが尊親とともに開拓に入られた方で、以後ずっとこの地に住まわれ、農業を営んでいらっしゃいます。この方は、まだ幼き日にそのお爺さまから聞いたあるフレーズを時折ふと思い出すのだとおっしゃいました。「わたしの時代にこんなに豊かに暮らせるようになるとは思わなかった。わたしはお前たち孫や子どもが豊かになればとの思いだけで、この土地に開拓に入ったのだ・・」と。
 北海道開拓の歴史を思うとき、それは新たな土地への希望が原動力となってはじめられたかもしれませんが、しかし現実は、まさに何もない原野に立ち、そのうえ本州では想像もできないような冬の厳しさにさらされ、「苦労」などという言葉ではあらわせない過酷な経験の連続だったことと思います。そんな状況を、なぜ人びとは乗り切ることができたのか。わたしは、このお爺さまの言葉こそがその答えであるように感じました。そしてここに、金次郎が言っていた「一圓融合」や「ワクワクドキドキ」や「報徳」の原点があるのではないかと思ったのです。
 さてしかし、今回はすこし長くなってしまいました。そこで、この言葉になにを感じたのか、この言葉からどんな景色が見えたのか、そのあたりは次回ゆっくり描いてみたいと思います。





掲載日:2011年9月22日
第3話  「あぁ、幸せだなぁ」という呟き

 先週末インテグレックス社の研修旅行に同行させていただきました。金次郎が生まれ育った地を訪れ、生家や記念館、博物館などをめぐったあと、箱根の入り口へと移動をして温泉や食事を楽しむというプランでした。
 金次郎が幼き日に農業をしていたその土地には、いまでも田畑がちらほらと広がっていました。わたしはその土地で、実際に稲穂のにおいが濃厚に満ちるなか、陽光をさんさんと浴びる田畑の景色を目にして、『毎日口にしている食物は、ぜんぶこういう景色のなかで育まれたんだなぁ』ということを、いまさらながらにつよくリアルに体験しました。また、箱根のふもとでセミたちの鳴き声をBGMにして露天風呂に入りながら、『このお湯が、まさにこの山々の懐に抱かれ、育てられ、そして地中深くからこうしてここにわき上がってきているんだなぁ』と、とても鮮やかに感じました。そのうえ、ご一緒させていただいた社員の方々の大きなあったかさも加わり、なんだか自分がほんとうに深く愛されている存在であることを感じ、とっても満ち足りたような、そんなじんわりとした気分になり、思わず「あぁ、幸せだなぁ・・」なんて声に出して呟いてみたい心持ちになったのです。
 現代生活のなかでは、ひとはビルの谷間に生き、お米は炊飯ジャーを開くとそこにあり、魚は冷蔵庫を開けるとそこから出てくるような、なんだかおかしな錯覚をもってしまいがちかもしれません。けれど本当は、米の生育には土や太陽や雨や虫といった、文字通り泥臭い自然の力が必要で、黙々と魚を育てているのは海なのです。人間は、どんなに文明や技術を進歩させても、太古より変わらず自然たちが育むものを口にして生きる道を選んでいます。科学的に計算し調合された錠剤や点滴で生命を維持させることの方がよっぽど合理的で効率的であり、そうしたことだって充分に可能な時代なのに、それでも無駄や過不足も多く出る「食物」で、いのちや身体をつなごうとする・・。このことは、実はとても不可思議で非合理な選択でありながら、とても人間くさい在り方なのではないかと感じます。
 農民だった金次郎は、特に人間の命や営みにとって自然の力が必要不可欠であることを、そして人間が自然から愛されることなくして生きられないことを、熟知していた人物です。だからこそ、自身が受けている力や愛情に敏感であることを大事に考えました。そう思ってみれば、わたしがあの日の研修で「あぁ、幸せだなぁ」とおなかの底から感じる体験をしたことを、きっと彼なら「大切な体験をしてきたね」と言って喜んでくれるのではないかなぁ・・と、そんな勝手なことも思ったりしています。


インテグレックス社研修旅行のひとこま
        



掲載日:2011年9月2日
第2話  きらきらした背中のこと

 怒ると恐ろしいほどに厳しくて、でも、明るくて、楽観的で、お気楽で、わがままなほど自然体で、冗談が大好きで・・。と、それが、二宮家の長女として誕生した祖母が、わたしにみせた姿でした。彼女の父は四代目当主(二宮徳)、兄は五代目当主(二宮尊道)です。お父さんっ子、お兄ちゃんっ子だった祖母は、生家を愛してやまず、二宮家の話もよくしてくれました。わたしは祖父母と7年間同居していたことに加えて、彼女と同じ長女であり、寅年生まれであり・・と、重なることもあったせいか、この祖母に特に深い親しみを覚え、大きな影響を受けて育ったことをあらためて思います。
 彼女は、料理と裁縫が上手なひとでした。家にわたしの友人たちが遊びにきたときも、「おいしいでしょ?もっと食べなさい」と、食べ盛りのわたしたちが参ってしまうほどたくさんの手料理を、楽しそうに振る舞ってくれました。また、暇さえあれば、裁縫の余り布でポケットティッシュのケースを作っていました。自身の葬式の参列者への形見づくりだと笑っていましたが、あちこちで配ってきてしまうため、これは叶わぬ夢となりました。近所の駅員さんやなじみの魚屋さんはもちろん、電車で隣り合わせただけの見知らぬお姉さんさえも、彼女にとってはみんな「友達」(自称!)でした。そしてその友達に、ご自慢の?手作りティッシュケースを贈っては、相手からの「嬉しい」や「ありがとう」の声や笑顔に、幸せを満喫していたのです。
 わたしにとっては、この祖母の姿こそ、夜なべして作ったわらじを村人にプレゼントしたり、働いて手に入れたお小遣いを貧しい人に配ったりした幼き日の金次郎の姿とぴったり重なります。それは、辛く苦しい滅私奉公の自己犠牲だったどころか、むしろ金次郎や祖母自身がもっとも嬉しく、楽しく、きらきらと暮らすための生き方だったのだと思うのです。
 祖母は、二宮家の話や、それを実践するかのような自身の生きざまをとおして、「自分もひとも幸せになる生き方」を見せてくれました。彼女が亡くなったいまもなお、あこがれや尊敬や愛しさを抱きながら、わたしはこの祖母の背中を追いかけています。わたしだけでなく、ひとは「幸せな背中」を追いかけようとするのではないでしょうか。真の手応えと実感をもって「わたしは幸せだ!」と伝えてくれる背中ほど、かっこよく、そしてウキウキワクワクするものはない。わたしはそんなことを考えています。




掲載日:2011年8月22日
第1話  金次郎とワクワクドキドキ

 このサイト名である「一圓融合」。これは、わたしの先祖のひとりでもある二宮尊徳(江戸時代末期の実践家)の言葉です。ご承知の通り二宮尊徳とは、小学校の校庭に立つ、薪を背負って本を読む立像でおなじみの、あの金次郎少年のことです。この「二宮金次郎」という人物に、みなさんはどのようなイメージを抱かれるでしょうか。
 もしかしたら、親孝行で、勤勉で、苦しいことにも歯を食いしばって耐え、自己犠牲的な滅私奉公につとめ、質素倹約で、品行方正な模範的人物だ・・といったイメージかもしれません。そして、「一圓融合」という言葉もまた、そんな人物の言葉であるならば、きっと生真面目で、厳格で、堅く、重苦しい、道徳論的な言葉だと思われるかもしれません。いずれにしてもイマドキの感覚からは、ちょっと時代錯誤な、古風すぎるイメージではないでしょうか?

中桐 万里子
 けれどだとしたら、「ワクワクドキドキ」などという軽やかなフレーズはこの名のサイトには、なんだかそぐわないような、ふさわしくないような、そんな印象を持たれるのではないでしょうか。さらにはこんな風に思われるかもしれません。そもそも「なぜ、いまさら金次郎?」と・・。

 わたしは金次郎の名や二宮家のことを、祖母や母から聞かされて育ちました。特にわたしにとっては、よく話を聞かせてくれた祖母の存在がとても大きく、金次郎の姿や二宮家の様子は、その祖母の雰囲気や生きざまや人柄と重なるようにしてあります。そしてまさにそのことが、「金次郎」と「ワクワクドキドキ」がつよくリンクする一つの理由になってもいます。
 さらに言えば、今年の3月11日の体験を超え、この国が大きく新しい在り方への摸索をはじめているこの時代には、ワクワクドキドキとたしかにつながる金次郎の姿こそが、わたしたちに「何か」を与えてくれるものになるのではないかと思っていたりもします。
 では、金次郎とは一体何者だったのか、ワクワクドキドキとのつながりはどの辺りにあるのか、なぜこの時代に金次郎なのか・・。と、この辺りのお話も含め、この場所ではさまざまに思うことを描かせていただこうと思います。
 第一回の今回は簡単なご挨拶のみとなりましたが、どうぞ今後ともおつきあいのほど、お願いいたします。


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